歎異抄(たんにしょう) 第八条
念仏は行者のために、非行・非善なり。
わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。
わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。
ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、
行者のためには非行・非善なりと云々。
(歎異抄第八条)
自業自得が仏教の大原則です。自分の業が自分自身の人生を作ってゆくと教えるのが仏教です。他人や神仏の力に頼るのでなく、自分の人生は自分で解決してゆかねばなりません。
仏道を成就するのも定められた戒律や行を励み、善を為して徳を積まねばなりません。比叡山には厳しい難行苦行があり、現在でも行なわれています。親鸞聖人も20年間の比叡山での学問や修行を重ねられました。
そして法然上人のお念仏のみ教えに出逢われたのです。
「念佛は行者のために非行非善なり」お念仏は私の計らいで称えているものではなく、阿弥陀如来の大願業力によって私の口からお念仏が出て来てくださっているとの教えです。
私が称えると言う行為に「行」や「善根」があるのではなく、称えられている名号「南无阿弥陀仏」そのものに私を浄土に往生させ、仏のさとりに導く力があるのです。だから、いくらお念仏を称えようとも称える私の「行」でも「善根功徳」でもないのです。これを他力の念佛といいます。
勿論、お念仏は私の意図とは関係なく、勝手に出てくるものではありません。称えようと言う意思がなければ出るものではありません。従って自分が称えるから自力の念佛ではないかと疑問をもたれる方もいらっしゃるでしょうが、称えるということに効力をみようとするものを自力の念佛といいます。
称える効力ではなく、称えられる南无阿弥陀仏の名号そのものに力があるのです。
喩えていうならば、病気になって医師から薬を頂いたとします。それを服用して病気が治ったとき、薬を飲んだ自分の功績と考える人はいないでしょう。薬を飲む行為が大切であることはいうまでもありませんが、薬を選び与えて下さった医師の力と何より薬の力が病を治癒してくれたのです。
お念仏も称えると言うことが大切には違いありませんが、称えられるお念佛そのものに大善、大功徳があるのです。
ですから、「念佛は行者のために非行・非善なり」なのです。