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正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【45】

正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【45】

光雲无碍如虚空(こううんむげによこくう)
一切の有碍(うげ)にさはりなし
光澤(こうたく)かぶらぬものぞなき
難思議(なんじぎ)を帰命せよ   (浄土和讃)

【正信念仏偈45】 ~さわりなき光~

ご和讃の四首目は「无碍光」という御名のおいわれを通して、阿弥陀さまのはたらきが味わわれています。「无碍」とは、さわりがないことこと。三河のおそのさんという妙好人は、「おさしつかえなし、ご注文なし」と、そのお心を味わっておられます。では、それは具体的にはどういうことでしょうか。親鸞さまは、无碍光といわれるお慈悲のはたらきを、「雲」と「虚空」に譬えておられます。

光雲无碍如虚空(こううんむげによこくう)
一切の有碍(うげ)にさはりなし

雨雲は空いっぱいに広がって、山川の高低をとわず、薬草と毒草のわけへだてもなく、平等にふりそそぎ、潤し、育んでいきます。ちょうどそのように、阿弥陀さまの光は、生きとし生けるものを蓋い、老いも若きも善人も悪人もへだてなく、その慈しみによって潤おしてくださるというのです。

去年の秋、チューリップの球根を植えました。春に世羅の高原で掘らせてもらった球根です。ただ、はじめて球根掘りをしたので、選んだ球根もちいさく、保管も丁寧とはいえず、咲くかどうかわかりません。なので、ホームセンターにプランターを買いに行ったとき、新しい球根も買って、一緒に植えました。お店で買った球根は、球も大きく、とてもきれいで、みるからに綺麗な花を咲かせそうです。しかし、球根の身になると、さびしいことですね。スコップで乱暴に掘りおこされ、半年以上ネットでつるされ、やっと土に戻してもらえても、咲くかどうか信じてもらえない…。冬の寒さより、そちらの方が寒いのかもしれません。

しかし雨雲には、そのようなわけへだては一切ありません。小さいものでも、大きいものでも、きれいなものでも、泥がついているものでも、立派な花を咲かせそうなものでも、花を咲かせそうにないものでも、えらびなく降りそそぎ、潤します。親鸞さまはそのような雨雲のめぐみに阿弥陀さまの光をたとえて、「光雲」と呼ばれたのでしょう。

つぎに「虚空」とは、古代インドの宇宙観で考えられた、すべてのものを支え、すべてを在らしめている空間のことです。万物は大地に支えられていますが、その大地は水に支えられ、水は風に支えられ、風は虚空に支えられていると古代インドでは考えられていました。そして虚空を支えるものは、もはやありません。虚空とは、すべてのものを包み、支えている、すべてのものの居場所なのです。同じように、阿弥陀さまの光は、いかなるものもえらびなく、包みこみ、浄土に生まれて仏となる身として、真実の居場所を与えてくださいます。親鸞さまはそのような阿弥陀さまのはたらきを「无碍なること虚空のごとし」と讃えられたのですね。

雨は
ウンコの上にも おちなければなりません
イヤだといってもダメなのです
だれも かわってくれないのです

どんな困難があっても、自らの人生は自らが引き受けていかなければならない、という野村康次郎さんの詩ですが、私はこの詩を聞くと、なぜか阿弥陀さまが思い合せられます。手の届かない空から降ってくる雨水は、どんなものも嫌うことなく、むしろ低いところにこそ流れこみます。同じように、阿弥陀さまの慈しみは何物もさわりとせず、むしろ仏のさとりにいちばん遠い凡夫にこそ、降りそそがれています。何という不思議でしょうか。
光澤(こうたく)かぶらぬものぞなき
難思議(なんじぎ)を帰命せよ

お聞かせいただきましょう。弥陀の光が慈雨のごとく、降りそそいでくださっています。

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