正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【44】
解脱(げだつ)の光輪(こうりん)きわもなし
光触(こうそく)かぶるものはみな
有無(うむ)をはなるとのべたまふ
平等覚(びようどうかく)に帰命(きみよう)せよ (浄土和讃)
【正信念仏偈44】 ~有無をはなれる~
死んだらおしまいという考え方と、魂は永遠という考え方。私たちはふりこのように、この極端な二つの考え方のどちらかに偏ってしまいます。しかしお釈迦さまは、これらはどちらに立っても、正しくいのちを受けとめることにはならないとして退けられました。
「死んだらおしまい」という考えにたってしまうと、「どうせ死ぬのだ」という投げやりな生き方に陥るか、「今さえ良ければ」という享楽的な生き方に流れてしまいます。生きている「今」こそが大事だ!という言葉はもっともです。
しかし、それが未来のない「今」だとするならば、私たちは本当に、その「今」を大切に生きていけるでしょうか。お釈迦さまは、死んだらおしまいという考えを、無にとらわれた見解(無見)として退けられました。そのような考え方は「今」を大切に生きることに繋がらないからです。
一方で「魂は永遠である」という考え方にたってしまうと、本当に大事なのは永遠に変わらない「魂」ということになり、笑ったり泣いたりしながら生きている「現実」が軽視されてしまいます。少しまえに「本当の自分さがし」という言葉が流行りましたね。しかし、私たちが大事にしなければならないのは、もがきながら生きている「わたし」であり、頭のなかに描いた「本当のジブン」ではないはずです。お釈迦さまは、うつり変っていく現実という川の底に、永遠に変わらない「魂」のようなものを認める考えを、有にとらわれた見解(有見)として退けられました。
死んだらおしまいと考えても、魂は永遠と考えても、正しくいのちを見ることにはなりません。たしかに、いのちはつねに現在形であり、「今」しかありません。しかし、それは過去と未来を切り離した今ではなく、過去をにない未来を仰いでいる「今」なのです。
「わが子の顔を脳裏にきざみこもうとでもするような、あの視線を忘れることができない」
お浄土で待っておられる恩師の言葉です。四十のころお母さんの看病をされていたとき、「また今晩来るから」と一旦戻ろうとされたそうです。ところが、お母さんは仰ったそうです。「もう一度、顔を見せておくれ。この世で最後かもしれないからね」と。そのときの、自分を見つめる母のまなざし。限りない想いをこめて、二度とない「今」を見つめるそのまなざしに、いのちを見つめるまなざしを教わったと、恩師は仰いました。
ふと、娘がおっぱいを卒業した日の朝を思い出しました。できるだけ長く飲ませてやりたいという若坊守の思いでしたが、ついにやってきたその日。カレンダーにアンパンマンのマークを書いて、「この日になったら、おっぱいはアンパンマンになるから、バイバイね」と一週間前から言い聞かせていましたが、まだ一歳半。わかるはずもないと思っていました。
ところが、最後の授乳をおえた朝、「もういい?もう最後だよ?」と聞く若坊守に、「うん、もういい。ばいばいする」と、娘はしっかり頷きました。そして、そのあと一度もおっぱいを求めませんでした。あのときの娘のまなざしが、恩師の言葉と重なりました。
解脱(げだつ)の光輪(こうりん)きわもなし
光触(こうそく)かぶるものはみな
有無(うむ)をはなるとのべたまふ…
「いのち」とは虚しく無くなってしまうものではなく、永遠にあるものでもありません。阿弥陀さまはそのいのちを見つめ、「わが国に生まれんとおもえ」と喚びつづけてくださっています。はたして仏さまの眼には、どのような「私」が映っているのでしょうか。お念仏いただきましょう。限りない慈悲をこめて、限りあるいのちを見つめてくださる仏さまのまなざしに、遇わせていただきましょう。