正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【27】
必至無量光明土
諸有衆生皆普化
天かならず無量光明土(むりようこうみようど)に至れば、
諸有(しよう)の衆生(しゆじよう)みなあまねく化すといへり
(意訳)
ひかりの国に いたりては
あまたの人を 救うべし
※無量光明土… 阿弥陀仏の浄土のこと。
諸有… あらゆる迷いの境界のこと。
【正信念仏偈27】~曇鸞大師(どんらんだいし)の教え④~
自分のわかる世界には光を感じ、自分のわからない世界には闇を感じて生きている。それが私たちではないでしょうか。たとえば、歩きなれた家の廊下でも、夜、電気をつけずに歩こうとすると、一歩一歩すすむにつれて足が出なくなり、かわりに手が前に出てきます。まさに〝手さぐり〟状態になるのですね。それは、私がわからない世界をおそれ、無意識のうちにも、わかろうわかろうとしている姿なのでしょう。そのように、自分の見えない世界に不安を感じて生きている私たちにとって、もっとも深い闇と感じられるものが、死ではないでしょうか。それは、私の視野がまったくきかない世界だからです。「冥土」という表現もありますが、この言葉には、自分のわかる世界に光を、自分のわからない世界に闇を感じて生きている私のすがたが反映されているように思います。ところが曇鸞大師は、まさに、まる反対のことを仰いました。
かならず無量光明土(むりようこうみようど)に至れば
諸有(しよう)の衆生(しゆじよう)みなあまねく化すといへり
(正信偈)
この世の縁つきるとき、はかりなき光の世界(浄土)に生まれさせていただく。そして必ず仏のさとりをひらき、あらゆる人々をすくわせていただくのだ…。曇鸞大師は、自らの視野がきかない死の向こうに、仏の智慧のかがやきを仰いで生き抜かれた方でした。
人は見えているものを確かと思い、見えない世界を闇と感じる。しかし、逆なのですね。私たちは生きているかぎり、煩悩のまなこでしか、ものごとを見ることができない。煩悩のまことで見られた世界に、まことと呼べるものはない。凡夫の視野がおよばない世界、そこにこそ、仏の智慧がかがやいている。写真のネガが、光の当て方によっては、ポジとなるように、自らの見えない世界に、仏のまなざしを仰いで生きる。それがお念仏であることを、曇鸞は教えてくださったのです。
昨日、観光客であふれかえっている京都駅の構内で、外人さんの女の子がカバンを放りなげて、両手で顔をおおっていました。あぶないなあ…と見守っていたのですが、どうでしょう、その子のうれしそうな表情は!よく見ると、なんとも期待にみちた表情で、「イナイ・イナイ~」しているのですね。ほどなく柱のかげから、お父さんが出てこられました。「いないいないバア」はグローバルな遊びなのですね。なんとも微笑ましい光景でした。私には、多くの人が行き交う駅の構内で、カバンを放って両手で顔をおおうなど、とても怖くてできません。しかし、自分の見えない世界に、こんなにも光を感じることができる世界があるのですね。そういえば、一才九ヵ月のうちの娘にも、同じものを感じます。最近は気がつくとソファーなどによじのぼって、その不安定な場所から立ちあがって、
「しゃん! にい! いちい―--!」
などと、期待に満ちたまなざしで、カウントダウンしているのです。何をしようとしているのか、あわてて駆けつけるのですが、これまた期待に満ちたまなざしで、何のためらいもなく、ソファーからダイブしてきます。もうちょっと危機意識をもってもらいたいところですが、娘はそのような不安とは無縁のようです。もちろん、京都駅の女の子も、うちの娘も、彼女らのなかには、確かなものなど何ひとつありません。ないから、幼児なのですね。しかし彼女たちは、それが問題にならない世界を生きています。むしろ、何もわからないからこそ抱かれている、その大きなぬくもりを感じつつ、生きているのでしょう。彼女たちにとって、自分のわからない世界は、親のまなざしが届いている世界なのですね。
曇鸞大師は自らのわからない世界に、はかりなき光を仰いで生きぬかれました。それは、阿弥陀さまといういのちのみ親に出遇い、如来のまなざしのなかに歩む道、それがお念仏であったということですね。
南无阿弥陀仏