歎異抄(たんにしょう) 第七条
念佛者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。 罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよことなきゆゑなりと云々。
(歎異抄第七条)
何という言葉でしょう。私をお念仏の世界に導いてくださった珠玉の言葉です。人生の現実は、愚痴と怒りと不平不満に満ちた悲しい世界です。まさにシャバ(堪え忍ばなければ生きてゆけない世界)です。「地獄は一定すみか」と言わずにおれない、何が飛び出してくるかわからない不安と苦悩にあえぐ世界です。ストレスに打ちのめされて傷つき壊れてしまう人も多く、他人事ではありません。
ところが、お念仏喜ぶ人の前には、天の神も地の神も敬いひれ伏し、悪魔も異教徒も行く手をさえぎることは出来ない。また、自ら作った深い罪もその報いを受けることはなく、どのような善根もお念仏に勝るものはない、と言われているのです。
これは親鸞聖人の実感であり、体験から出た言葉でしょう。
●御和讃(ごわさん)
御和讃には
南无阿弥陀仏をとなふれば 堅牢地祇は尊敬す
かげとかたちのごとくにて よるひるつねにまもるなり
南无阿弥陀仏をとなふれば 炎魔法王尊敬す
五道の冥官みなともに よるひるつねにまもるなり
南无阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり
などと詠われています。念仏一門に対する迫害から、流罪にあわれ、僧籍は剥奪されるなど聖人の御一生はまことに困難を極めたものでしたが、阿弥陀如来の摂取の光明に包まれて九十年の御一生を力強く生き抜かれた親鸞聖人の実感がこの歎異抄第七条のお言葉となって表れたものでしょう。
私の大好きなお言葉です。
自殺や精神障害、自らを見失ってとんでもない事件を起こし、他人を巻き込んで自らも壊れてゆく人のなんと多いことでしょう。人間は弱いものです。私もそしてあなたも。決して自分は強くないということを自覚し、阿弥陀さまの大きなみ胸に抱かれ、おまかせすることによって 新しい道が開かれます。大きな声で、小さな声で、南無阿弥陀仏と称えてみましょう。
「念仏者は無碍の一道なり」親鸞聖人が実感された世界を感じ取れる日が必ずくるに違いありません。