正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【47】
仏光(ぶつこう)照曜(しようよう)最第一
光炎王仏(こうえんのうぶつ)となづけたり
三塗(さんず)の黒闇(こくあん)ひらくなり
大応供(だいおうぐ)を帰命(きみよう)せよ (浄土和讃)
※三塗…悪業の結果として趣く三つの苦しみの世界。地獄・餓鬼・畜生。
大応供…世の供養・尊敬を受けるに値する者。ここでは阿弥陀仏を指す
【正信念仏偈47】 ~闇をひらく光~
日常勤行としてお正信偈に添えている六種のご和讃、その最後の一首を味わいましょう。
仏光(ぶつこう)照曜(しようよう)最第一
光炎王仏(こうえんのうぶつ)となづけたり
三塗(さんず)の黒闇(こくあん)ひらくなり
大応供(だいおうぐ)を帰命(きみよう)せよ
(仏さまの光は照らし耀くことならびなく、光の王とも名づけられる。三塗という闇さえもひらいてくださる、世の敬いを受けるに値するこのみ仏におまかせいたしましょう…) 「三塗」とは、私たちの業が描きだす地獄・餓鬼・畜生という苦しみの世界です。地獄は猛火に焼かれるような苦しみを受けるので「火塗」といい、餓鬼はつねに刀杖に脅かされているので「刀塗」といい、畜生は互いに喰いあい殺しあうので「血塗」と言われます。
「地獄なんて無いんでしょ?」と聞かれることがありますが、一方で「この世の地獄ですね」という言葉をニュースでも耳にします。現代人は死後の地獄を否定しつつ、現世に地獄を描きだしているのかもしれません。地獄は有るか無いかではなく、私たちの業が描き続けている世界。だからこそ、恐ろしいのであり、だからこそ、逃げ場がないのでしょう。
先日、三才の娘をつれてアンパンマンのコンサートに行きました。カレンダーにアンパンマンのマークを書いて、「この日になったらアンパンマンにあえる!」と首を長くして待ってたコンサートでしたが、いざコンサートがはじまると、ボロボロ涙をながし、わんわん声をあげて泣いていました。
「おっきな火がね、こわかったんよ…」
と、後で言っていました。
たしかに舞台は「黄金の炎」をアンパンマンが守る!というテーマで、大きな火がしばしば登場していました。それは消してはいけない伝説の炎だったのですが、彼女は怖くて仕方がなかったようです。
思い返してみると、少し前、町内で火事があり、言い聞かせていたいたところでした。
「なっちゃんね、火はこわいんよ。気をつけようね。みんな燃えてなくなっちゃうし、命を落として、会えなくなることもあるんよ」
当日も会場までの車中で消防車を見たので、同じように火の怖さを教えていたところでした。たとえ「黄金の炎」であっても、彼女には、泣きはらすほど「怖い」としか見えない彼女の物語があったのですね。「だいじょうぶ!お父さんいるから!」と抱きしめていましたが、けっきょく最後まで泣いていました。
人はみな、物語をもって生きています。どのように物語のなかで「今」を生きているか、それによって見える眺めは変わります。では、私たちには、どのような命の行く末が見えるでしょうか。生きるということは、そうたやすく肯定できる代物ではありません。歩くためには地面を踏まねばならないように、わたしはいのちを奪い、他者をおしのけ、愛するものすら傷つけずには生きられないでしょう。宗教を問わず、いつの世も地獄が語られるのは、いのちの果てに黒闇を描かずにはおれないものを、生きていること自体が抱えているからですね。ではこの黒闇は、いったいどうすればひらかれるのでしょう。
仏光(ぶつこう)照曜(しようよう)最第一
光炎王仏(こうえんのうぶつ)となづけたり
三塗(さんず)の黒闇(こくあん)ひらくなり
わたしが描きだす苦悩をひらくものは、仏さまの仰せの他にない。闇をひらくものは、光の他にはないのです。わたしの声では娘の涙すら止められませんが、生死をこえた阿弥陀さまの名のりは、生死を貫いて色褪せることのない、いのちの意味をひらいてくださいます。ともにお念仏いただきましょう。いのちの意味が見えない凡夫のために、仏さまの光が届いてくださっています。
南无阿弥陀仏
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