歎異抄(たんにしょう) 第四条
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。
聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、
かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、
きはめてありがたし。
浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、
大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を
利益するをいふべきなり。
今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、
存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
しかれば、念仏申すのみぞ、
すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々。
(歎異抄 第四条)
親鸞聖人が念仏往生の道を選ばれたのは、末法の凡夫が成仏できる道は阿弥陀如来の本願力による意外にないということでした。
親鸞聖人にとっては、往生浄土の道こそが人生の苦悩を解決する唯一の道だったのです。換言すれば、人間に生まれた目的は往生浄土であり成仏であったと言うことです。
ではなぜ阿弥陀如来の浄土に往生し成仏することが大切なことなのか、人間に生まれた目的と言えるのか、仏縁のない人には理解できないことでありましょう。
では、それ以外に人間に生まれた目的は何だったのか。人間に生まれたことが尊いことであり、有難いといえることは何なのか、と問い直してみたら一体どんな答えが出てくるでしょうか。
人生は、お釈迦さまがシャバ、耐え忍ばなければ生きてゆけない世界と表現されたように次から次へと思いがけない苦悩が押し寄せてくる世界です。
決して、思うがごとく生きてゆける世界ではありません。何ものも当てにはならない世界です。
つかんだ幸せも何時崩れてゆくかわかりません。いや必ず手放さなければならないものです。生は死に、出会いは別れに必ず変わってゆきます。生や出会いの喜びが大きければ大きいほど死や別れの悲しみも大きいのです。
すべてが我が身から離れてゆく。ついに人生は一人ぼっち。独生独死です。
今、あなたが目的にしていることが本当に人生の目的、人間に生まれた目的と言えるものでしょうか。
人間は何をするためにこの世に生まれてきたのか、これを後生の一大事と言って、問い続けてきたのが浄土真宗です。
これゆえに「ようこそ人間に生まれさせていただいた」と言い切れるもの、そのことに出会えたことを「信心決定」といい、「獲信」と言ったのです。
本願寺八代蓮如上人は正月に「明けましておめでとうございます」と年始の挨拶にやってきた道徳という門弟に「道徳、いくつになるぞ。念佛申さるべし」と、念佛申す身となることこそが本当にめでたいことだと諭されています。
さて、浄土に生まれ仏になるとはどういうことでしょうか。仏教には、流転輪廻という人生観があります。迷いの深さを表現する言葉です。無限の過去から未来永劫にわたる迷いの深さを表す言葉です。
我が命を「たのみもしないのに親が勝手に生んだのだ」とも「死んだらおしまいの命」とも考えないのが仏教徒です。不思議な因縁、思議できない深い深い因縁によって生まれ出てきた人生であり、かけがえのない貴重な人生として受け止めるのです。今この貴重な境涯に命を恵まれながらも何のために生まれ出てきたかわからないまま終わったら、迷いの闇は未来永劫にわたって続いてゆくと考えるのです。
すなわち人間境涯に生まれ得たこの人生を本当に悔いのない貴重な時間にしてゆこうとするのです。
何のために生まれてきたのか、どこへ向かって生きてゆくのか、何にも見えない迷いから目覚めて「生まれてきた意味」と「確かな生きる方向」とを確認してゆこうとする道が仏道です。
その目覚めを悟りと言い、その悟りは他を導く活動につながってゆきます。
悟りを智慧と表現し、悟りから生まれる「他者を導き救う活動」を慈悲と言います。
人間の世界にも他者の苦しみに共感し、救済活動を行なう実践があります。しかし、人間が行なう救済活動には限界があります。いや、救済の手を差し伸べたつもりが、かえってその相手を不幸にしてしまうこともあります。
親鸞聖人が生きられた時代には、犬畜生のように扱われた人々や飢餓で飢え死んでゆく人々が数限りなくいました。
いや、現在でも世界中、いたるところに飢餓や災害で亡くなってゆく人。精神的に苦しんで自らの命を絶つ人。人間不信で苦しむ人。上げれば切りがありません。
「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」
まことにその通りです。本当に他者の苦悩を思えば思うほど、力のないことを泣かずにおれません。
「浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもって、おもふがごとく衆生を利益するをいうべきなり」
人間の究極の救済は魂の救いです。命の底からすくい取られて初めて救われたと言えるのです。
「念佛申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にてそうろふべき」往生(生まれ往く。往き往く)という道を歩む身となることこそ苦悩からの真の救済です。「生きて往けなくなった者が生きて往ける身になる」それが往生浄土の道です。
生きて往けるとはまた、死んで往けるということでもあります。どんなことにも行き詰まらないということです。無量寿のいのちを恵まれると言うことです。無量寿のいのち、すなわち浄土に生まれて仏として生きるいのちを恵まれる時、この境涯で果たせない慈悲の活動も可能となるのです。
「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもって、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり」
ものを哀れみ悲しむ心が大きければ大きいほど我が身の力量のなさを泣かずにおれません。
「いかにいとほし不憫とおもふとも存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」今生での救済の限界に涙された親鸞聖人の悲痛なる叫びです。
「念佛申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にてそうろふべき」と言われた親鸞聖人の根底には、根本的な人間苦の解決は何かという命題があるのです。
南无阿弥陀仏の廻向の
恩徳広大不思議にて
往相回向の利益には
還相回向に回入せり
なもあみだぶつの えこうの
おんどくこうだい ふしぎにて
おうそうえこうの りやくには
げんそうえこうに えにゅうせり
お念仏のお救いは自分が浄土に救われて終わりではなく、そこから仏としての活動ができる身となる。還相とは迷いの世界に還ってきて迷える衆生を導いてゆく活動です。
往生浄土の道はそのままが還相回向への道であったのです。