歎異抄(たんにしょう) 第十条
一 念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。
そもそもかの御在生のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏申さるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人(親鸞)の仰せにあらざる異義どもを近来はおほく仰せられあうて候ふよし、伝へへうけたまはる。いはれなき条々の子細のこと。
(歎異抄第十条)
いよいよ第11条から歎異抄の名の通り、異を歎く、すなわち親鸞聖人のみ教えを間違って受け取っている人々の考えを正そうとされるところに入ってゆきますが、第10条では「念仏には義がない」すなわち人間の計らいを加えないのが念仏であることを述べてあります。
親鸞聖人が御在世の頃、ともに京都に赴いて直接お聴聞した人々は、親鸞聖人のみ教えを間違いなく聞かせていただいているけれども、その人々の御教化を受けた人の中に、親鸞聖人のみ教えとは違うことを言うものが出てきていると伝え聞いているが、まことに残念なことであります。
「無義」を「義」とするとは、わかりにくいことですが要するに、自らの勝手な解釈を立てないことであります。
お念仏は阿弥陀如来が凡夫救済のために成就されたものであり、そのお念仏について人間の側で勝手な解釈をすべきではありません。ただただ頂くばかりであります。 人間の知恵才学を超えた無限の智恵と慈悲の働きである阿弥陀如来の活動が、お念仏となって私どもに働きかけてくださっているのですから、ただただ頂くよりほかはないのです。
お念仏は称えるものですが、大無量寿経に「聞其名号」と出ているように聞くものでありました。
凡夫のはからいを超えて、ただただすなおに聞き開くのです。「いつも一緒だよ」と呼びかけ給う声に耳を傾けることがお聴聞であり、聞くことを通して阿弥陀如来のお救いが届いてくるのです。そしてそのお救いの真っ只中にいる自分に気付かせていただくのです。