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歎異抄(たんにしょう) 第一条(2)

歎異抄(たんにしょう) 第一条(2)


「老少善悪をえらばず ただ信心を要とす」
「他の善も要にあらず 念佛に勝るべき善なきゆえに」
「悪をもおそるべからず 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえに」

●歎異抄 第一条 (2)

何という大胆な言葉でしょう。実にきわどい断言です。
阿弥陀さまのご本願の前には、年齢も、善悪も関係ない。どれほどの善根功徳を積もうとも阿弥陀さまのお徳の前には太陽の陽の光の前のローソクようなもので千本ともそうが万本ともそうが、何の役にも立たない。
また、どれほど重い罪を犯しておろうとも、阿弥陀さまのお救いの邪魔になるものは何もないと言われているのです。
世間の常識ではとても理解できることではありません。善も悪も一切関係ないと言い切られているのです。
これをひとつ受け取り違いをすればとんでもないことになります。事実、まちがって受け止めた人達がすでに親鸞聖人ご在世の時からいたのです。造悪無碍といわれる異安心(いあんじん ※どんな悪いことをしても阿弥陀さまは助けてくださるのだから、悪いことをしても差し支えないというもの)です。
これを親鸞聖人は「くすりあればとて毒をこのむべからず」といましめられました。

薬は毒を消すためにあるのです。しかし、薬があるからと言って、好んで毒を飲むものはいないはずです。阿弥陀さまのご本願は罪悪深重という毒を目当てに立ち上がられたのです。だからと言って、毒を好むのはバカと言うものでしょう。凡夫の作る悪業煩悩をもろともせず凡夫をすくい取る薬は、阿弥陀さまのご本願より確かな薬はないことを示されたのです。
阿弥陀さまのご本願を信じお念仏申す。言い換えれば、阿弥陀さまのご本願に一切をおまかせする心(信心)の起こることだけが最も重要なことなのです。

●御和讃(ごわさん)

信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり
仏性すなはち如来なり  【諸経】意(九十四)

老も少も善も悪も、一切関係なく信心ひとつで如来と等しいとさえ言い切られています。
阿弥陀さまのご本願、大慈悲に摂めとられて真実信心を恵まれた人はすでに如来さまと等しい位についている、これを等正覚と言い、不退転とも言われます。
煩悩具足、罪悪深重の凡夫がそのままで如来と等しい位についているのです。もちろん、凡夫がそのままですでに仏になっているわけではありません。仏さまになったら凡夫ではありません。凡夫は凡夫に変わりはなく、死の瞬間まで凡夫です。しかし、信心獲得の身には仏性が宿っているのです。阿弥陀如来の大慈悲が凡夫の身いっぱいに宿っているのです。
阿弥陀如来の大慈悲が信心という往生の因(たね)となって念仏申すこの身に届いているから、煩悩具足の凡夫のままですでに如来と等しい位にいるのです。

 

 

 

阿弥陀仏の御名をきき
歓喜讃仰せしむれば
功徳の宝を具足して
一念大利無上なり
【讃阿弥陀仏偈讃】 (三十)


 

 

 

五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
【高僧和讃】結讃(百十八)
南无阿弥陀仏という本願の名号にはアミタすなわち無量、量り知ることの出来ない無量の功徳が満ち満ちており、その名号の徳がそのまま凡夫に廻向されるから信心喜ぶ人はそのままで、如来と等しい身とならせていただくのです。

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