●歎異抄 第一条 (1)
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、 往生をばとぐるなりと信じて、 念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、 すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。 弥陀の本願には老少・善悪のひとをえらばれず ただ信心を要とすとしるべし。 そのゆへは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を たすけんがための願にてまします。 しかれば本願を信ぜんには、 他の善も要にあらず。 念仏にまさるべき善なきゆへに。 悪をもおそるべからず。 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへにと云々
(歎異抄 第一条)
●歎異抄 第一条 (1)
念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨(せっしゅふしゃ)の
利益(りやく)にあづけしめたまふなり
摂取不捨とは、摂め取って捨てないということ。お念仏しようという心が起こったものは捨てない、即ち、必ず救う。それが歎異抄第一条のこころです。
阿弥陀さまのお救いの前で大切なことは善悪とか正邪ではなく、お念仏申す心が起こったかどうかということなのです。
その「お念仏しようという心」とは、阿弥陀如来の誓願不思議、すなわち「阿弥陀如来が苦悩の衆生を救うために立ち上がってくださった」ことを信じ受け取る心です。言い換えると阿弥陀如来の本願に出遇うことができたということです。「信ずる」とは願いが届いたということです。勝手に「信じます」と思い込むことではありません。私がいくら思い込んでもそんな信心は何の役にも立ちません。
「朝になったら目が覚めると信じています」といくら固く信じても、朝が来る前に命終わることもあります。私の信ずる心・思い込みは何の役にも立ちません。しかし朝、目が覚めた人は、朝が来たことを実感し、確信します。朝が来ると信じる必要はありません。
「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」とは阿弥陀如来の御本願をわが身に感じ取った実感・確信のときなのです。
だから「必ず」なのです。すでにみ胸に抱かれてあるよろこびが「念仏申さんとおもひたつこころ」なのです。
そのこころは、お聴聞よりほかに恵まれることはありません。「聞即信(もんそくしん)」と言われる所以です。
ただはただでも
ただじゃない。
聞かねばただはもらわれぬ
聞けば聞くほど
ただのただ
ハイの返事もあなたから
聞くという私の行為も、信じるという私の意思も、称えるという私の行為もすべて阿弥陀さまの働きがあればこそなのです。花を見て「美しい」という感情を持つのは花が与えてくれるものです。私の意志ではありません。
●御和讃【弥陀経】意 (八十二)
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
阿弥陀さまと申し上げるのは、十方微塵世界の念仏する人を一人残らず救いとって下さる仏さまだから阿弥陀さまと申し上げるのです。
アミダとは、ア、ミータ。アとは打ち消し、否定の言葉です。ミータとは1メーター、2メーターと長さを量る単位に使われて言いますが、量るという言葉です。すなわち量ることが出来ないという意味がアミータであり、図ることが出来ない仏さま。念仏するものは誰でも救うという無限に懐の大きい仏さまだから阿弥陀仏と申し上げるのです。
阿弥陀さまの心を聞き、そのみ心に出遭うこと、気づかされることを信心いただくと申します。する信心ではなく、恵まれいただく信心、これを他力の信と言うのです。