正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【8】
本願名号正定業
至心信楽願為因
成等覚証大涅槃
必至滅度願成就
本願の名号は正定(しようじよう)の業なり。
至心信楽(ししんしんぎよう)の願を因とす。
等覚(とうがく)を成り大涅槃(だいねはん)を証することは、
必至滅度(ひつしめつど)の願成就なり。
(意訳)
本願成就(ほんがんじようじゆ)のその み名を
信ずるこころひとつにて
ほとけのさとりひらくこと
願い成りたるしるしなり
【正信念仏偈8】~いのちの意味~
「いのちはなぜ、尊いのでしょうか?」
ある学生から、こんな質問をうけました。さあ、どんな答えがかえせるでしょうか。昔、一休さんというアニメのなかに「どちて坊や」というキャラクターがいました。どちて坊やはいくさで両親とはぐれてから、どちて?をくり返すようになります。どちて一休さんには毛がないの?どちて雨は降るの?どちて雨が降らないとお花は枯れちゃうの?…ふつうは疑問すら感じないことをどちて坊やは問いつづけます。さすがの一休さんも困りはて、
「坊やが小さいからわからないんだよ」
と打ち切ろうとします。が、坊やはさらに、
「どちて小さいとわからないんでちゅか?」
一休さんもついに、逃げだしてしまいます。本当に根本的なことには、もはや理由をあげることはできないのですね。しかしこの学生の問いに、本当に答えはないのでしょうか。
今年、境内に本霧島ツツジを植えていただきました。庭師さんによると、斜面に生えているツツジなので、根っこが曲がっているのが本霧島の証しだということです。うれしそうにツツジについて語られる庭師さんの表情が印象的でした。そして最後に仰いました。
「ぜひ毎日、声をかけてあげてください。ぜったいに、花の咲きようが違いますから。」
おはよう。今日はあたたかいね。かわいいね。咲いてくれてありがとう…。心をこめて語りかけると、ツツジはたくさん花を咲かせてくれるのだそうです。もちろん逆もまたしかり。まったく声もかけず、心ない接しかたをしていると、お花の咲きようは悪くなるそうです。庭師さんの仰ったように近寄って声をかけてみたのですが、一輪として同じ表情の花はないことに気づかされました。そして一輪一輪が、それぞれ語りかえしてくれるようでした。
お花に心があるかどうかではないのですね。心ある接しかたをするか、心ない接しかたをするか。心とは、私たちの生き方によって見いだされるものなのでしょう。ちなみに、現代の認知神経学では、心ある存在として扱われなければ、赤ちゃんの心も育たないことが確かめられているようです。いのちの尊さについても、同じことが言えるのでしょう。 「いのちは尊いですと言うのならば、尊いような生き方を、せなあきませんなあ・・。」
と、わたしの恩師は仰っていました。なぜ、いのちは尊いのか…。それは説明されて納得するものではなく、尊いいのちとして、私が生きられるかどうか。それがすべてなのですね。さあ、では私たちのなかに、その力があるでしょうか。どんな苦難のなかにも生きる意味を見出す真の智慧があるでしょうか。
等覚(とうがく)を成り大涅槃(だいねはん)を証することは、
必至滅度(ひつしめつど)の願成就なり。(正信念仏偈)
浄土に生れさせ、凡夫を仏とならしめよう。自らとおなじ、さとりの身となさしめよう…。
これが南无阿弥陀仏という御名にこめられた阿弥陀さまの願いでした。仏とは、いかなる苦悩もいとわず、母が己がひとり子をいのちをかけてもまもるように、生きとし生けるものをその胸にいだきしめ、救いとげることができるものです。さあ、どうでしょう。お仏壇に手を合わすとき、そのように仰いでおられるでしょうか。あの光りかがやくお姿はたしかに、ただいま私たちを抱いてくださっている阿弥陀さまの慈悲をあらわしています。しかし同時に、私たちがやがて成らせていただく姿でもあるのです。そのように、阿弥陀さまを仰いでおられますか?
私たちは生れてきた意味すら知らず、死んでいかねばならない凡夫です。しかし、私に智慧がなければこそ、愚かな身なればこそ、阿弥陀さまは喚びつづけてくださっています。汝はわが子である。浄土に生れて仏となるべき身である…と喚びつづけてくださっています。お念仏いただきましょう。仏さまのお慈悲のなかに、このいのち、尊いいのちとして歩みぬかせていただきましょう。