正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【6】
本願名号正定業
至心信楽願為因
成等覚証大涅槃
必至滅度願成就
本願の名号は正定(しようじよう)の業なり。
至心信楽(ししんしんぎよう)の願を因とす。
等覚(とうがく)を成り大涅槃(だいねはん)を証することは、
必至滅度(ひつしめつど)の願成就なり。
(意訳)
本願成就(ほんがんじようじゆ)のその み名を
信ずるこころひとつにて
ほとけのさとりひらくこと
願い成りたるしるしなり
【正信念仏偈6】~闇をてらす声~
今月からとりあげる四句は、私たちに名となってとどき、信ずる心をひらき、お浄土に生まれさせてくださる阿弥陀さまの救いの全体像を、たった四句に表しつくされたものです。まずはじめの一句を味わいましょう。
「本願の名号は正定の業なり」
仏さまの願いによって完成した南无阿弥陀仏のみ名こそが、私たちの生死の闇をやぶり、浄土に生まれゆく道をさだめる大いなるはたらきだという親鸞さまのお心です。では、名が闇を破るとはどういうことでしょうか。
「闇」という字は、音が閉ざされていると書きます。光ではなく音が閉ざされているところが、興味深いですね。ほんとうの闇とは、声が届かないことなのでしょう。考えてみれば、どれほどお日さまが明るく照らしていても、私の心が閉じて誰の言葉も届かないなら、世界はやはり闇に覆われているのでしょう。そして人は、闇のなかで歩きつづけることはできません。足がすくんで前に出なくなってしまいます。しかし逆に、どんな苦しい状況でも、心にとどく言葉に遇うならば、自分を見つけてくれる声をきくならば、人は一歩をふみだしていけるのではないでしょうか。声がとどくならば、闇は破られるのです。
わたくし事で恐縮ですが、このたび女の子を授かりました。出産まで立ち会いましたが、まさに命がけでわが子を産んだ若坊守と、命がけで生まれてきた赤ちゃんのすがたに、一生ぶんの教えをもらった想いです。それにしても、赤ちゃんを授かって思い知らされましたが、私たちはほんとうに無防備なすがたで生まれてくるのですね。自然界の動物ならば、生まれてすぐに立ったりするのでしょうが、私たちは自らの命にまったく責任のもてない状態で、この世に生をうけました。そして生まれてからも、ほんとうに赤ちゃんは思うがままですね。泣きたいときに泣き、おしっこしたいときにおしっこをし、ウンチも同様。
はじめてお風呂に入れるときなどはとても怖かったのですが、私の緊張などまったくどこ吹く風。赤ちゃんはお風呂につかった瞬間、気持ちよさそうにウンチしていました。また昼も夜もなくおっぱいを欲しがるので、とくに若坊守は寝させてももらえません。これはまさに、おそるべき片道切符ですね。こちらの都合はまったく勘定に入れてもらえず、ただひたすら赤ちゃんの都合に合わせていくばかり。返り道はありません。しかし、母親とは本当に尊い存在と思います。どこまでも赤ちゃんのすがたにそって、包みこんでいきます。おふくろという言葉は、どんなものでも、そのものの形にそって包んでいく風呂敷が語源といいますが、本当にその通りと思います。
しかし親の側にも、たった一つだけ願いがあります。それは、わが子に親と認めてもらうこと。あなたのすべてをつつむ存在が、いまここにいる。あなたはけっして一人ではない。まだ眼には見えないかもしれないけれど、あなたのすべてをつつんでやまないわたしが、いまあなたを腕に抱いている。そのことを伝えたい。それがたった一つの親の願いなのでしょう。だから親は、「お母さんですよ、お母さんですよ…」と、ただひたすらわが子を抱きいて、名のりつづけます。その名のりは願いであり、その子の世界を照らすはたらきなのでしょう。阿弥陀さまのご本願も、同じだったのですね。私たちは賢そうふるまっていても、なんのために生まれ、どこに向かって生きているのか。生死のゆくえについては、為すすべがありません。私たちも赤ちゃんもまったく平等にです。しかし自分の生死にすら責任のもてない私たちだからこそ、いのちのみ親の名のりが、ここに届いています。
「本願の名号は正定の業なり」
ともにお聞かせいただきましょう。まだ眼も見えぬ赤子が、母親の声に抱かれて安んじていくように。お念仏いただいている私たちの姿こそ、たった一つの仏の願いなのですから。