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正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【46】

正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【46】

清浄光明(しようじようこうみよう)ならびなし
遇斯光(ぐしこう)のゆゑなれば
一切の業繋(ごうけ)ものぞこりぬ
畢竟依(ひつきようえ)を帰命(きみよう)せよ  (浄土和讃)

【正信念仏偈46】 ~ひかりに遇う~

光陰矢のごとし。毎年またすぐ大晦日になりそうな思いと、今年も大晦日までたどりつけるだろうか…という不安。さまざまな思いがまじりあい、近くて遠い年月の不思議を感じますが、

ともかくもあなたまかせの年の暮れ(一茶)

大いなる御心のなかで、精いっぱいの歩みをさせていただきましょう。今回のご和讃には、いっぱいの光を仰ぎながら、苦悩の娑婆を歩みぬかれた親鸞さまのお姿が表れています。

清浄光明(しようじようこうみよう)ならびなし
遇斯光(ぐしこう)のゆゑなれば
一切の業繋(ごうけ)ものぞこりぬ
畢竟依(ひつきようえ)を帰命(きみよう)せよ  (浄土和讃)

ならぶものなき清らかな光、この光に遇えているからこそ、生きることの苦しみさえも解かされていく。まことの拠りどころである阿弥陀さまに、ともにおまかせいたしましょう。このように、親鸞さまはご和讃されています。では、清浄なる光、阿弥陀さまの光に遇うということは、どのような事態なのでしょうか。

わたしの恩師、梯實圓和上は、高槻の行信教校という学校で教鞭をとっておられましたが、駅から学校までの一本道を、ときどき目をとじて歩いてみるのだと仰っていました。

「何十年と歩きなれた道ですけどなあ、目をつむって歩くと、まあ、二十歩が限界ですな。十歩を超えたあたりから足が出んようなって、かわりに手が前に出てきます。人間は、自分の見えない世界は怖いんですなあ…」

車のこない一本道とはいえ、もう七十を大幅に超えておられたので少し心配しましたが、和上の仰るとおり、人間はふつう自分の見えない場所には暗闇を感じ、不安と怖れをいだくものですね。しかし、必ずしもそうではありません。恩師は「けれども…」とつづけて語られました。

「わたしの目の届かない場所は、仏さまの光が届いてくださっている場所でしたなあ…
己が見えないことに怯えながら生きていくのではなく、そこに仏さまの光を仰ぎながら、歩ませていただきましょうなあ。」

自分の目の届かない場所にこそ、届いてくださっている光がある。同じ状況に置かれていても、暗闇に怯えながら生きるのか、逆に、光を仰いで生きるのか。どのように受けとめ足を踏み出すかによって、歩むべき道はまったく変わるのですね。

日本語には「お蔭さま」という不思議な言葉があります。「蔭」というからには、わたしの見えない、わからない場所を意味しているのでしょう。しかし、その「蔭」に「お」と「さま」をつけて、最大限のお敬いを捧げているわけです。自分の見えない、わからない世界に暗闇ではなく、むしろいっぱいの光とぬくもりを感じとっている、それが「お蔭さま」という言葉なのですね。そう考えると、阿弥陀さまのお慈悲は、まさしく「お蔭さま」のはたらきだと言えるでしょう。

仏さまの光に遇うということは、わたしが生死の意味を見通せるような、確かな身となることではありません。賢そうな顔をして暮らしていても、大事なことは何一つ分かっていない「凡夫」という命のありさま。阿弥陀さまの御心は、その凡夫のためにこそ、かけられていました。何もわからない赤子が、何もわからないからこそ、お母さんに抱かれてあるように。いまだ生まれぬ先から、何度も何度も、喚びつづけられてあったように。

遇斯光(ぐしこう)のゆゑなれば
一切の業繋(ごうけ)ものぞこりぬ

みずからの愚かさに怯えるのでなく、届いてくださっている光を仰いで歩ませていただきましょう。凡夫のための阿弥陀さま。わたしのための親さまが、ここにいらっしゃいます。

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