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正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【43】

正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【43】

智慧(ちえ)の光明(こうみよう)はかりなし
有量(うりよう)の諸相(しよそう)ことごとく
光暁(こうきよう)かぶらぬものはなし
真実明(しんじつみよう)に帰命(きみよう)せよ (浄土和讃)

【正信念仏偈43】 ~はかりなき光~

「そこに意味は有りますか?」という文章は、正しい日本語でしょうか。意味や価値とは、有るか無いかで考えられるものでしょうか。

たとえば、ある日砂漠のまんなかから湧いてきた、まっくろな液体。飲むことなどとうていできず、火がつくと燃えあがるその液体は、砂漠の民にとっては迷惑きわまりない代物でしかなかったでしょう。しかし、それをエネルギーとして活用できる知恵の光がさしこんだ瞬間から、そのどろどろの液体はとてつもない輝きを放つことになりました。たとえば、おさな子が反故紙に書いた、ミミズがはったようならくがき。しかし、それは親にとっては、文字も知らないわが子がけんめいに書いてくれたお手紙であり、解読不能であればこそ、譬えようもなく愛おしいでしょう。

そういえば、うちの娘も幼稚園からしばしば工作をもって帰ってきます。お菓子の空き箱をくっつけたもので、作品名はいつも「ロケット」。しかし、テープでくっつけただけのその空き箱が、若坊守にはどうしても捨てがたいのです。(私はときどき捨てますが…)

意味や価値とは、それを見出せるかどうかが問題であり、有るか無いかではないのですね。いのちの尊さということも同じでしょう。

智慧(ちえ)の光明はかりなし
有量(うりよう)の諸相ことごとく
光暁(こうきよう)かぶらぬものはなし
真実明(しんじつみよう)に帰命(きみよう)せよ  (浄土和讃)

どこかに「尊いいのち」が有るのではありません。いのちを尊いものとして見出していく智慧があるかどうか、それこそが問題です。そして阿弥陀さまの誓いの御名は、いつでも、どこにあっても、どのような私であろうとも、このいのちに意味を与え、生きることの尊さを照らし出してくださいます。それを「智慧の光明はかりなし」と親鸞さまは仰いました。

また、夜明けまえの暁のひかりは、かすかな光ではあるけれど、闇夜にのまれる心配はありません。そのように、阿弥陀さまの御名は、わずか一声であるけれど、けっして私たちの無明の闇にさえぎられることがありません。それを親鸞さまは「光暁」と仰いました。

そして、この和讃では阿弥陀さまは「真実明」とも呼ばれています。「真実」とは「虚偽」に対することばであり、「いつわり、へつらわぬ」こと、「必らずものの実となる」ことだと親鸞さまは仰います。つまり「真実」とは、けっして裏切られることのないものと言えるでしょう。阿弥陀さまの名のりは、いかなる悪業・煩悩もさわりとせず、そしてどのような苦難の人生であっても、けっして、虚しい人生のまま終わらせることがありません。だから「真実明」と言われるのですね。

今この原稿を書きながら、ふと、幼いころの記憶が脳裏によみがえりました。おそらく小学校の低学年のころだったと思います。引き出しをあけて服をえらんでいたとき、母が優しく微笑んで、こう言ってくれました。

「一真はほんと、何を着ても似合うね。」

いつの日かも分からない、何気ないある日の風景。それも、そのように見てくれているのは母だけであり、それは自分でも見えない、親のまなざしの中にしかない自分の姿だったでしょう。しかし、お母さんがそう見てくれている、その一事が、その一言が、いったいどれほど、幼いころのわたしを支えたのでしょうか。阿弥陀さまの智慧のはたらきも、おなじように味わえるのではないでしょうか。

阿弥陀さまは、倦むことなく、止むことなく、喚びつづけてくださっています。「汝をもらしはしない」と親の名のりを挙げてくださっています。お念仏いただきましょう。いのちのみ親のまなざしのなかに、ともに仏の子として、歩みぬかせていただきましょう。

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