正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【36】
源信広開一代教
偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深
報化二土正弁立
源信(げんしん)ひろく一代の教を開きて
ひとへに安養に帰して一切を勧む。
専雑(せんぞう)の執心(しゆうしん)、浅深(せんじん)を判じて、
報化二土(ほうけにど)まさしく弁立(べんりゆう)せり。
(意訳)
源信(げんしん)和尚(かしよう) 弥陀に帰し
おしえかずある そのなかに
まことの報土(くに)に うまるるは
ふかき信にぞ よると説く
【正信念仏偈36】~源信(げんしん)和尚(かしよう)の教え②~
博覧強記(はくらんきようき)、まさに源信(げんしん)和尚(かしよう)はそのような高僧であったようです。比叡山にあって天台宗に身を置いておられましたが、お正信偈に
源信(げんしん)ひろく一代の教を開きて
ひとへに安養(あんよう)に帰して一切を勧む。
とあるように、和尚(かしよう)は天台宗の教えだけでなく、お釈迦さまがご一生に説かれた法門すべてを学びつくし、そのうえで、往生浄土の教えに帰していかれた方でした。その著作は一七〇部にのぼりますが、なかでも有名な『往生要集』は、引用文がじつに九五〇をこえており、僧侶のみならず平安貴族にもひろく読まれました。和尚(かしよう)の学徳がいかに深いものであったかが窺われます。ただし和尚(かしよう)は『往生要集』のなかで、往生浄土の道においては、もっぱらお念仏一行をおさめるべきであり、ほかの多くの行をまじえておさめるべきではないと誡めまれました。
専雑(せんぞう)の執心(しゆうしん)、浅深(せんじん)を判じて、
報化二土(ほうけにど)まさしく弁立(べんりゆう)せり。
これは源信(げんしん)和尚(かしよう)が懐感禅師という方の書物によりつつ展開された教えの内容です。ただし、お正信偈では、その深い教えの内容がわずか二行にまとめられているため、すこし理解が困難ですね。やわらかくいうと、ただお念仏のみをいただいてお浄土に生まれようと願っている人は、その心が深いために、真実の浄土(報土)に生まれることができる。しかし、念仏のほかにも多くの難行を修めて往生を願っている人は、その心が浅いために、せいぜい浄土の辺地(化土)にしか生まれられない。だから多くの行をまじえるのをやめて、ただひとえにお念仏に帰すべきですよ、というおこころです。しかし、さまざまな厳しい行をおさめて往生を願う人の心は浅く、ただ念仏のみをおさめている人の心こそが深いとは、いったいどういうことなのでしょうか。
「なっちゃん、おやすみ
おかあさん、おやすみ
なっちゃん、おやすみ
おかあさん、おやすみ・・・」
二才半になる私の娘と若坊守は、毎晩のように、ひとつの枕のうえで顔をくっつあって、何度も何度も、名前を呼び合っています。二人の世界のなかに入っていけない私としてはまことに忸怩(じくじ)たる思いですが、何度も何度も呼び合っている二人のすがたをみていると、「ただ念仏のみおさめる人の心こそが深い」という和尚(かしよう)のおしえが、思い合せられます。
親のほんとうの願いとは何でしょうか。子のほんとうの安らぎとは何でしょうか。最愛のわが子が、自分を親とみとめでくれること、自分を親と呼んでくれること。それこそが、もっとも深い親の願いではないでしょうか。自分のすべてを包んでくれる親がいてくれること、「おかあさん」と口にできること。それこそが、幼子のもっとも深い安らぎではないでしょうか。その一声は、けっして何かを得る「手段」ではありません。その一声こそが親の願いであり、子の安らぎであり、「目的」なのでしょう。逆にいえば、親がすべてを抱いてやりたいと願っているその幼子が、どうしたらお母さんに抱いてもらえるだろうかと苦心していたならば、どうでしょうか。
「悲しきは 親に抱かれて 親さがし」
その姿こそが、親と子の心がすれ違った、もっとも悲しい姿ではないでしょうか。
阿弥陀さまは苦悩の凡夫のためにこそ、「ただ我が名をとなえよ」と願わずにおれませんでした。その如来大悲の心にもっとも深くかなっているからこそ、難行をおさめる人より、ただお念仏をよろこんでいる人の心こそが深いのだと和尚(かしよう)は仰ったのですね。遠慮なく、お慈悲をよろこばせていただきましょう。阿弥陀さまは、わたしの親さまなのですから。