正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【35】
源信広開一代教
偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深
報化二土正弁立
源信ひろく一代の教を開きて
ひとへに安養に帰して一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、
報化二土まさしく弁立せり。
(意訳)
源信和尚 弥陀に帰し
おしえかずある そのなかに
まことの報土(くに)に うまるるは
ふかき信にぞ よると説く
【正信念仏偈35】~源信(げんしん)和尚(かしよう)の教え①~
七高僧の六番目、源信和尚(げんしんかしよう)の教えをまとめられた一段に入ります。源信和尚は九四二年、大和の国(奈良県)、当麻(たいま)の郷に生れました。お父さんは和尚が七つのとき亡くなりましたが、お母さんに大切に育てられ、幼きころより利発な子でした。あるとき、一人の僧が川で弁当箱を洗っているのを見て、言いました。
「お坊さん、その川は濁っているけれど、むこうにもっときれいな川がありますよ。」
「坊や、浄穢不二(じようえふに)といってね、きれいとか汚いとかは人間が執着しているだけなのだ。」
「ふうん・・じゃあお坊さん、なぜそもそも、お弁当箱を洗う必要があるのですか?」
僧はその非凡さにおどろき、すぐさま比叡山にのぼらせて学問をさせるよう、お母さんに勧めました。しかしお山にのぼるということは、もう会えなくなることを意味しています。お母さんは悩みつつも、わが子が仏の教えを学ぶことができるならば…と、比叡山へ登らせました。和尚はまだ九つでした。
母の思いをむねに抱き、源信和尚は比叡山で学問をつみ、わずか十五才にして、宮中で行われる法華八講の講師に任ぜられました。それは叡山を代表する学僧として認められたことを意味しています。そして、その講義のすばらしさに感銘を受けた村上天皇から、布帛(おりもの)を賜りました。和尚はすぐさま、故郷の母に手紙を添えて布帛を送りました。これでお母さんも喜んでくれるだろう…と。しかし、お母さんは手紙をそえて、その恩賞を送り返されたのでした。
後の世を 渡す橋とぞ 思ひしに
世渡る僧と なるぞ悲しき
(きっと仏の教えを学び、人々を苦しみから救う人になってくれると思っていましたが、このような褒美をいただき、名をあげて喜んでいるとは、なんと悲しいことでしょうか…)
源信和尚は、お母さんからの手紙を読んで心から悔い、それからは生涯、官位をもとめることなく、ただ仏道を歩まれたといいます。そして阿弥陀さまのご本願のなかに、みずからの生死いづべき道を見出されたのでした。源信和尚が著された『往生要集』(おうじようようしゆう)は、日本浄土教の礎となり、およそ百五十年ののち、法然聖人の歩みを導かれることになります。
四十二歳ころ、和尚は母に会うために故郷に帰られました。お母さんはすでに病の重い状態でしたが、和尚が枕もとで話された阿弥陀さまのご本願をたいへん喜ばれ、浄土にご往生されたといいます。源信和尚とお母さんの物語は、まことの慈愛は痛みをともなうことを教えています。私などは、いまこの原稿を書きつつ、昨晩娘が一緒におふろに入ってくれなかったことで肩をおとしています。なんというお粗末さでしょう。慕われると目じりをさげ、そっぽ向かれると肩を落とす。いったいこの両眼で、わが子を視ているのか、自分の都合を視ているのか、わかりませんね。
慈眼(じげん)をもって衆生をみそなはすこと、平等にして一子(いつし)のごとし。ゆえにわれ極大慈悲母(ごくだいじひも)を帰命し礼したてまつる。
和尚は『往生要集』(おうじようようしゆう)のなかで、阿弥陀さまのお慈悲を「母」に譬えられています。阿弥陀さまのご本願は、摂取不捨(せつしゆふしや)、けっしてあなたを捨てはしないという誓いです。私たちが仏さまを思っていようと、背を向けていようと、それは阿弥陀さまの関心事ではありません。阿弥陀様の願いはただ一つ、苦悩の凡夫を一子のごとく抱きしめるのみ。源信和尚は、母の慈愛を通して、如来大悲のみ心に遇われたのでしょう。たとえわが子に会えなくなっても、わが子の愛をはねつけることになったとしても、ただ、わが子がまことの道を歩むことのみを願われたお母さんの真心が、和尚を阿弥陀さまのご本願に導いたのですね。