正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【31】
一生造悪値弘誓
至安養界証妙果
一生悪を造れども、弘誓(ぐぜい)に値(もうあ)ひぬれば、
安養界(あんようかい)に至りて妙果(みようか)を証せしむ
(意訳)
一生悪を造るとも
弘誓に値いて救くわるる
【正信念仏偈31】~道綽禅師(どうしやくぜんじ)の教え④~
道綽禅師の教え、最後の二句のこころを味わってみましょう。
一生悪を造れども、弘誓(ぐぜい)に値(もうあ)ひぬれば、
安養界(あんようかい)に至りて妙果(みようか)を証せしむ。
一生涯、自他ともに傷つけずには生きていけない凡夫。その罪ふかき凡夫も、弥陀の本願に出遇うならば、浄土に生まれて仏となる。そのように道綽禅師は説かれました。まさにこの二句は、お念仏の核心といえるでしょう。しかし、どうでしょうか。罪ふかき凡夫が、浄土に生まれて仏となる。この本願のこころを納得することができるでしょうか。常識的には、正しく生きている善人ならば救われると考えるでしょう。罪深い凡夫こそ救われるなんて、道理に合わない。そんなうまい話があるわけがない、そう感じるのではないでしょうか。これは、どういうことでしょうか。
非常事態のときは、話がちがう。そういうことがあります。たとえば、私たちは体の具合が悪くなると、病院に行きますね。財布に診察券をいれて、受付に行き、ときには長い順番待ちをして、診てもらいます。しかし、それは病院に行く体力があり、長い時間待つこともできる、ある程度の余裕ある状態の時のことです。しかし、非常事態のときには、話が違います。病院のほうから駆けつけてくれます。救急車ですね。救急車に乗るのには、診察券も、財布も、必要ではありません。順番まちもありません。ときには、自分では呼んでもいないのに、救急車は来てくれます。なぜでしょうか、それは自分で病院に行く体力もなく、お医者さんを呼ぶこともできないほどの、緊急を要する状態だからですね。非常事態のときは、話がちがうのです。
罪ふかき凡夫こそが、浄土に救われて仏となる。それは、非常事態だということですね。真実といえる心、確かな心が一つもない、まさに非常事態の凡夫のためにこそ、弥陀の本願は建てられているということなのですね。
利井明弘という先生が、仰っていました。
「お慈悲が聞こえんいうのは、自分がおぼれとるのが太田川くらいに思うとるからや。ちゃうで、凡夫が溺れてんのは太平洋のど真ん中や。右も左もわからん、自分がどこにおるのか見当もつかん太平洋のど真ん中や。せやから頼みもせんのに、「助けに来たでー!」いうて救助船が来てくれとるんや。せやのに「ちょっと話がうますぎる」「船賃もってへんし」やて。そんな心配してる場合か。」
十数年前の記憶を再現しているので関西弁と広島弁がまざっていますが、ほんとうにそうですね。罪ふかき凡夫こそ救う。このお慈悲が聞こえないのは、どこかで、「自分は正しい」と思っているからなのでしょう。煩悩をかかえて生きる他ない「凡夫」とは、いったい誰のことなのか。周波数が合っていなければ、届いているものも聞こえないのですね。
先日、若坊守が娘を保育園へ迎えに行こうとした時のことです。車に乗ってエンジンをかけると、「ぼよよよ~ん♪」と歌が聞こえてきたそうです。いつも車中で娘と聞いている「ぼよよん行進曲」です。しかし、この日は笑いが止まらなかったそうです。なぜなら、その車は、直前までご院家さんが乗っていたからです。おそらく若坊守が早朝に乗ったとき、ステレオを切るのを忘れてエンジンを止めたのですね。
そのあとに乗ったご院家さんは、ステレオの切り方がわからなかったのでしょう。お参りの道中、ずっとその曲を聴いていたことになります。ご院家さんが、一時間ちかくも、一人で「ぼよよよ~ん♪」を。その光景を想像すると、思わず笑ってしまったそうです。
電波は届いていても、周波数が合わないと聞こえません。しかし、周波数が合ってしまうと、聞きたくなくても聞こえてしまうのです。
お念仏もおなじですね。阿弥陀さまの本願は、凡夫のために建てられています。ともに、聞かせていただきましょう。私のためにお慈悲の船が届いていることを。