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正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【30】

正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【30】

三不三信誨慇懃
像末法滅同悲引

三不三信(さんぷさんしん)のおしえ慇懃(おんごん)にして、
像末(ぞうまつ)・法滅(ほうめつ)おなじく悲引す。

(意訳)
信と不信を ねんごろに
すえの世かけて おしえます

【正信念仏偈30】~道綽禅師(どうしやくぜんじ)の教え③~

左文字 おせば右文字 たすくるの
ほかにたすかる 信なかりけり (鮮妙和上)

ハンコに刻まれた左文字は、紙の上では右文字となって表れています。ちょうどそのように、如来の大悲がわたしの上に届いているすがたを、浄土真宗では〝信心〟といいます。お念仏は〝まるたすけの法〟であり、すくいという出来事は、わたしと如来さまの共同作業ではありません。じつに信じる心すら救いの条件ではなく、如来さまのめぐみに他ならないという、ここにこそお念仏の教えの要があるでしょう。ですから浄土真宗においては、「信心とはどのような心か」を知ることは、「大悲とはどのようなものか」を知ることになります。道綽禅師はそのような如来の大悲の現れであるようなお念仏の信心のありさまを、「淳心・一心・相続心」という三つの側面から表されました。

①淳心 … はからいのまじらない心
②一心 … ふたごころなく決定した心
③相続心… ひるがえることのない心

如来さまの大悲を仰いでいる信心は、はからいがまじわらず、決定した、ひるがえることのない心だといわれるのですね。しかしこれは、何か水晶のようにきよらかで、鉄板のようにかたい心が、わたしのなかにできるという意味ではありません。私たちが自分の力でかためるような信心は、むしろ、はからいのかたまりであり、どこまでも不確かで、いつひるがえるか分からない心でしょう。では、お念仏を信ずる心が「淳・一・相続」する心であるとは、いったいどういうことでしょうか。

わたしはお酒も好きですが、昔から甘いものも大好きです。お寺に生まれ育ったためでしょうか、和菓子がとくに好きなのですね。ただ油断すると食べすぎてしまうので、体調管理のため、お菓子は夕方に一日一つだけ!ときめています。(※大きさは問いません)

ですから、お参り先でお菓子を出していただいたときも、いつもはお寺にいただいて帰ります。けれど、ときにはあるのです、断りのきかないようなお菓子に遭遇することが。
あるご家庭でご法事をおつとめしたとき、とても美味しそうなわらび餅を出していただきました。その時点で心がゆれましたが、ぐっとこらえて、いつものように、お茶だけいただいていました。ところが、そこに小さな男の子がトコトコトコーと走ってきて、目の前にちょこんと座るのです。見ると、同じわらび餅を手にもっています。

「お、わらび餅もらったの?よかったねえ、食べてごらん。きっと、とても美味しいよ。」

けれど、その子はだまって手を出しません。見ておられたお婆ちゃんが、言われました。

「お寺さんのう、そのわらび餅はきのう買っといたんじゃが、その子がのう、『これはお坊さんと食べるんじゃ♪』いうて、きのうからずっとがまんして待っとったんですわ。」

とっても美味しそうなわらび餅と、期待にみちた男の子の笑みを前にしては、もはやわたしには、ためらう余地すら残っていません。その子と一緒に、ただよろこんでいただくばかりでした。断りのきかないお菓子、なんとも嬉しいできごとでした。はからいのまじわらず、決定した、ひるがえることのない心とは、こういうことではないでしょうか。

いつの世にあっても、お念仏の信心とは、はからいのまじわらず(淳心)、決定した(一心)、ひるがえることのない心(相続心)であると道綽禅師はいわれました。しかしそれは、わたしのはからいで、澄ましかためた心ではありません。わたしのはからいが奪われてしまうほどの、大きなお慈悲に遭遇したすがたなのですね。

ともに、お念仏いただきましょう。断りのきかないぬくもりのなかで、はからいの心を、そっと置かせていただきましょう。

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