正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【17】
釈迦如来楞伽山
為衆告命南天竺
龍樹大士出於世
悉能摧破有無見
宣説大乗無上法
証歓喜地生安楽
(意訳)
楞伽の山に 釈迦とけり
南天竺に 比丘ありて
よこしまくじき 真実のべ
安楽国にうまれんと
※歓喜地… 悟りに至るに決定した聖者の位。
【正信念仏偈17】~龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)の教え①~
七高僧の第一は、二世紀にインドに出られた龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)です。大乗仏教の要である空(くう)の論理を明らかにした偉大な菩薩です。親鸞さまは龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)を仰がれるにあたり、『楞伽経(りょうがきょう)』にある釈尊の予言をまず引用されました。
「仏のさとりの内容は、迷いの人々にはうかがいえない。誰がこの法を伝えるであろうか。
わたしの滅後、未来に龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)が世にでて、有無の見(過った思想)をうち破るであろう。
そして大乗の教えをあきらかにして、聖者のさとりをひらき、浄土に往生するであろう。」
この予言は、龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)の空(くう)の論理が、お釈迦さまの悟りの内容を明らかにし、有無の見という私たちの誤った思想を破るものであったことを伝えているのでしょう。有無の見とは、有にかたよった考え(常見(じょうけん))と、無にかたよった考え(断見(だんけん))を言います。これらはともに誤った思想ですが、じつは私たちのきわめて一般的な考え方です。命についていえば、「死んでも魂はなくならない」という考えが常見にあたり、「死んだら何にもなくなる」という考えが断見にあたります。これらはともに極端な考えであり、正しい因果の道理が見えていないとされます。今はくわしく述べませんが、常見はさまざまなご縁のなかで成立している命のかけがえなさを見失わせ、断見は刹那的になり、生きる意志をうばうとされます。これら誤った思想をことごとく破られたのが、龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)の空(くう)の論理でした。
空(くう)とは欠けていること、言葉には中身が欠けていることを意味します。いかなる言葉にも、固定的な実体はないということです。ですから空(くう)の論理では、「種は種ではない」「生は生ではない」「死は死ではない」などと説かれます。一見すると意味不明ですね。しかし、どうでしょう。たとえば、もし種が言葉どおりに種でありつづけたら、それを種といえるでしょうか。種とは、芽となり花をひらき実をむすぶものです。いつまでたっても芽をださず、種であり続けるもの…それは種とはいえません。種は芽になってこそ、種でなくなってこそ、種なのです。だから種は種ではないのだと…。いささか混乱に陥りますが、ともかく空(くう)とは、言葉に実体のないことです。
「永遠なものは何ひとつありません。だから、また会えるのですよ。」
ある映画の別れのシーンで観たセリフです。ふつうは「永遠なものはない。だからいつかは別れがくる」と考えるでしょう。しかしその映画では「永遠なものはない。だから別れも永遠ではない」というのです。空(くう)ということが思い合わせられ、目からウロコでした。
「自縄自縛(じじょうじばく)、いやむしろ無縄自縛(むじょうじばく)ですなあ。」 と、ある和上は仰っていました。どこにも縛る縄などないのに、自分で縄をつくりだして、自分を縛って苦しんでいる。それが私たちなのですね。その縄の正体こそ言葉の虚構であり、それをやぶるものが空(くう)の論理でした。
もちろん、空(くう)とは私たち凡夫の理解できるレベルの話ではありません。しかし、別れを別れのままに終わらせず、死も死ではないと言える世界をひらくという意味では、お念仏のなかに、確かに空の論理は活きています。
「かならず、お浄土で会わせてもらおうね」
と言いきらせていただける道を、お念仏者は歩んでいきます。お念仏のなかでは、私には「死」としか思えなかった命の終わりが、浄土への「生」として転じられているのです。今生の別れが、まことに会える世界、浄土を聞きひらくご縁に転じられているのですね。 それ
はお念仏のなかに、死を生として、別れを出会いとして転換できる智慧がこめられているからです。空(くう)をさとられた、仏さまの智慧が。だからこそ、龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)という偉大な聖者すらも、お念仏をいただいて、浄土に生れる道を歩まれたのでしょうね。
ともにお念仏いただきましょう。仏さまの智慧のなかに、歩ませていただきましょう。