正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【13】
獲信見敬大慶喜
即横超截五悪趣
信を獲(え)て見て敬い大きに慶喜(きょうき)すれば
すなわち横(おう)に五悪趣(ごあくしゅ)を超截(ちょうぜつ)す
(意訳)
信心よろこびうやまえば
まよいの道はたちきられ
※五悪趣…地獄・餓鬼・畜生・人間・天上
【正信念仏偈13】~いのちの地平~
「お寺さん、地獄なんかないんでしょ?」
以前、ご法事の折にいただいた質問です。しかし私は思うのです。地獄が有るか無いかではなく、そのように問わねばならないものを私たち自身がかかえている、それこそが問題ではないかと。逆にいえば、いったいどれだけの人が、「私のおちる地獄はない!」と言い切れるでしょうか。
地獄・冥界・冥土…など、苦しく恐ろしい死後の世界は、民族や宗教を問わず、いつの時代でも考えられてきました。絶対に避けられない将来でありながら、けっして私には理解できないもの、それが死です。その正体不明のスクリーンに、まっ暗な恐ろしい世界を投影せざるをえないものが、私たちのなかにある。それこそが、問題だと思うのです。
小説家は「期待の地平」を見すえながら物語をつむぐのだと、ドイツの哲学者ヤウスは言っています。私たちは小説を読むとき、「ああなったら嫌だな」「こうなったらいいな…」と、つねに結末を想像しながら作品をたどっていますね。それを「期待の地平」というのだそうです。期待の地平は、それぞれの時代や社会によって異なります。もっと言えば、人それぞれに、違う地平を見ています。しかし一つ言えることは、どんな地平を眺められるかは、どのように過去をうけとめているかに制限されることです。どのようなものとして過去を背負っているか、それによって、将来に望みうる眺めが決まるというのですね。そして物語の結末が、読者の期待の地平をこえたところにおかれていると、読者にはまったく意味がわからず、面白くないそうです。しかし、結末が期待の地平の内側にあっても、当たりまえすぎて、面白くないのだそうです。だから良い小説家は、読者の期待の地平を見すえつつ物語をつむぎ、最後にそれを裏切るのだそうです。
では、私たちは〝いのち〟という物語のなかで、どのような地平を眺めているでしょうか。インドの人たちは、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上…といった苦悩の世界(五悪趣(ごあくしゅ))を、いのちの地平に眺めてきました。現代の日本人にはそういった地獄は見えにくいようですが、一方で、無機質で冷たい「無」という新手のジゴクを眺めているようにも感じます。いずれにしても、どのようないのちの地平を眺められるかは、私たちがどのようにいのちを受け止めてきたかに制限されているのでしょう。それは私自身が描いている、いのちの地平なのです。
信を獲(え)て見て敬い大きに慶喜(きょうき)すれば
すなわち横(おう)に五悪趣(ごあくしゅ)を超截(ちょうぜつ)す (正信偈)
阿弥陀さまの仰せを聞き、如来の仰せが見せてくださる世界を慶ぶところに、私たちは横さまに、苦悩の世界をこえてゆく…。そのように、親鸞さまは仰っているのですね。 「横さまに」とは、道理をこえてという意味です。横領、横恋慕、横紙やぶりなど、横という字はあまりいい意味で使いませんが、この字には、通常の道理をやぶるという意味があります。そうです、お念仏をいただくものは、如来の仰せのなかに、まさにいのちの地平をくつがえされるのです。わたしの煩悩の眼では、むなしく死んでいくとしか見えないこのいのちです。しかし、そのいのちの地平が、浄土に生れて仏となるべきいのちとして、くつがえされるのです。
信心よろこびうやまえば
まよいの道はたちきられ (意訳)
仏さまは、私たちの苦しみと悲しみを見すえて、お慈悲のみ名をつむいでくださいました。ご一緒に、お念仏をいただきましょう。
南无阿弥陀仏、この一声のみ名のなかに、私たちのいのちの地平をくつがえす、まっさらな、いのちの意味が開かれています。