正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【12】
摂取心光常照護
已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧
常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧
雲霧之下明無闇
摂取(せつしゆ)の心光(しんこう)、つねに照護(しようご)したもう。
すでによく無明(むみよう)の闇(あん)を破(は)すといえども、
貪愛(とんない)・瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、
つねに真実信心の天に覆(おお)えり。
たとへば日光の雲霧(うんむ)に覆(おお)わるれども、
雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。
(意訳)
摂取(すくい)のひかり あきらけく
無明(うたがい)の闇 晴れ去るも
まどいの雲は 消えやらで
つねに信心(まこと)の そら覆う
【正信念仏偈12】~光は届いている~
お正信偈は親鸞さまが著されたものですが、ほとんどの言葉は、お経典や七高僧の教えによりどころがあり、親鸞さまオリジナルの言葉ではありません。親鸞さまは、生涯、祖師のみ教えを仰ぎつづけられた方だったということですね。しかし今回の六句だけは、どこにもルーツがありません。ですから親鸞さまの個性が表われている、とても珍しい言葉です。まず「摂取心光常照護」の一句は阿弥陀さまのお慈悲を端的に表し、以下の五句はそれをたくみな譬えで表されています。
摂取(せつしゆ)の心光(しんこう)、つねに照護(しようご)したもう。(正信偈) いかなる者でも摂めとる阿弥陀さまの大悲のみ心は、まよいの闇を照らす光であり、つねにこの身を護りつづけてくださっていると言われるのですね。〝つねに〟とは、絶え間がないということです。たとえ私たちがその存在を忘れていても、太陽は照らしつづけてくれているように、たとえ私たちがどれほど罪深い凡夫であっても、届いてくださっているお慈悲が南无阿弥陀仏なのですね。この一句には、愚かでしかありえない凡夫のすがたと、愚かな凡夫にこそはたらいてくださっているお慈悲のすがたが見つめられています。
むかし是山恵覚という学徳兼備の和上がおられました。しかし和上も晩年、認知症にかかられ、毎日お勤めしていたお正信偈すら、「帰命無量寿如来・・・?」と二句目が出なくなられたそうです。介護疲れもあったのでしょうか、坊守さまがこぼされたそうです。
「昔はあんなに素晴らしい和上さんだったのに、いまではお正信偈も忘れてしもうて・・」
それを聞いた是山和上は仰ったそうです。
「わしが忘れても、仏さまが忘れてくださらんけえ、大丈夫じゃのう。」 私たちはとかく、安らぎとは確かなものをつかむことだと考えがちです。しかし本当に、不確かであることは、安らぎと相反することでしょうか。是山和上の一言は、私が確かになるのではなく、不確かな私にこそ届いているお慈悲があると教えてくださっています。
「透きとおった氷の大地は美しいが、歩くことはできない。私たちが歩くためには、ザラザラした大地が必要なのだ。」と、ある哲学者は言いました。生きているとはそもそも、どこか欠けていることなのです。しかし、この不確かさのなかで、迷いつつ生きている凡夫にこそ、届いてくださっているお慈悲がある。それはなんと豊かで、不思議な事態でしょうか。そして、このお慈悲のはたらきをユニークな譬えで示してくださっているのが、「已能雖破無明闇」以下の五句です。
すでによく無明(むみよう)の闇(あん)を破(は)すといえども、
貪愛(とんない)瞋憎(しんぞう)の雲霧(うんむ)、常(つね)に真実信心の天に覆(おお)えり。
たとへば日光の雲霧(うんむy)に覆(おお)わるれども、
雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。
阿弥陀さまのお慈悲に遇うことは、迷いようのない世界に生かされること。しかしそれは私たちが煩悩を断ちきって確かな身となることではなく、お慈悲のまえでは、私たちの煩悩が問題とならないということです。空がどれほどあつい雲におおわれていても、雲の下に闇はない。ちょうどそのように、どれほどの愚かさを抱えた凡夫であっても、その愚かさが障りとならない道があったと親鸞さまは仰っているのですね。これはたいへんユニークな譬え方です。普通ならば、どうしたら雲霧(煩悩)をはらって、晴天(真理)をハッキリ見ることができるか…と考えるでしょう。しかし親鸞さまは、雲の上を見ようとするのではなく、雲の下に闇のないことを驚かれました。光はとどいている。どれほど私の愚かさの雲霧があつくとも、阿弥陀さまのみ心は届いてくださっていた。そのことに驚かれたのです。ともにお念仏いただきましょう。自らの愚かさを憂うのではなく、届いている光をよろこばせていただきましょう。