正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【11】
凡聖逆謗斉廻入
如衆水入海一味
凡聖逆謗(ぼんしようぎやくほう)ひとしく回入(えにゆう)すれば
衆水(しゆすい)海に入りて一味(いちみ)なるがごとし
(意訳)
水のうしおとなるがごと 凡夫とひじり一味(いちみ)なり
【正信念仏偈11】~一味のやすらぎ~
凡聖逆謗(ぼんしようぎやくほう)ひとしく回入(えにゆう)すれば
衆水(しゆすい)海に入りて一味(いちみ)なるがごとし(正信偈)
清らかな川の水も、濁った川の水も、ひとたび海に流れ入れば、一味の潮となります。どのような水が流れこんでも、潮の味わいは変わりません。そのように、凡夫でも、聖者でも、たとえ五逆の罪をつくり仏法をそしるものであっても、阿弥陀さまのお慈悲に遇うならば、おなじ安らぎをえて救われる。そのように、親鸞さまは仰っています。
五逆とは、父母を殺したり、仏さまを傷つけたりするような五つの罪です。父母は自分の命のルーツであり、仏さまは真の安らぎ場ですが、そのような自らのいのちの基盤ともいえる存在に反逆していく行いなので逆罪といいます。仏法をそしる謗法罪とともに、もっとも重い罪とされます。しかし、そのような深い罪をつくる悪人でも、逆に聖者のような善人でも、すべての川の水がおなじ潮となるように、平等に救われるといわれるのです。『歎異鈔』にも「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず」とありますが、善悪平等のすくいは、お念仏の教えの大きな特徴です。しかし阿弥陀さまのまえでは老いも若きもないとは、どういうことでしょうか。ことに善人も悪人もおなじように…とは、常識的にはけっして理解できません。はたして善悪平等のすくいとは、どういうお心なのでしょう。
毎度、私事で恐縮ですが、今日は娘の離乳食をはじめる日です。いま目の前で若坊守が、うすいお粥をほんの一匙、ふくませようとしています。が、どうでしょう、あの迷惑そうな顔は…。赤ちゃんは本当に何もわからないですね。思わず笑ってしまいました。しかし、何もわからないのは本当に赤子だけでしょうか。万感の想いをこめて一匙のお粥をふくませる母と、その一匙の意味すらわからない子が、ある局面では、まったく異らなくなる。そういう土俵があるのではないでしょうか。
「恋愛については人間は学習能力ゼロですね。何歳になっても、人は恋に落ちた瞬間に、どうしたらいいのかまったく分からなくなる。」
以前「恋愛学」という学問の特集番組で聞いたコメントです。なるほど、他者にどれだけ的確にアドバイスできる人でも、自分が恋に落ちたとたん、何が正解かわからなくなる。それが恋というものなのでしょう。
「ひさかたの光のどけき春の日に
しづ心なく花の散るらむ」
のどかな日差しのなかでも桜はあわただしく散っていくように、どんな冷静な人でも心乱して前後不覚になるのが恋でしょう。しかし学習能力ゼロであるのは、恋にかぎりません。
生とは何か、死とは何か。私を生んだ父母も、私がどこから来たのか知りません。やがて死んでいく私も、どこに向っているのかわかりません。いったい私たちはどこから来て、どこへ向かっているのでしょう。いのちの土俵の上では老いも若きもありません。親も子もひとしく愚かであり、前後不覚です。
善とは何で、悪とは何か。いかなる戦争も正義の名のもとに行われます。いったい正しさとは何なのでしょうか。善悪どころか、黒白のわきまえもつかない愚さにかえる…とは法然聖人の仰せでした。私たちの善悪という概念ほど、あやしいものはないでしょう。情報の洪水のなかで賢そうな顔をして暮らしている私たちですが、本当に大切なことにかぎって、何も知らないのではないでしょうか。
なぜ阿弥陀さまは、老少善悪をえらばないと誓われたのか。それは老少善悪をえらべないほどの、愚かな凡夫をすくうためでした。
水のうしおとなるがごと
凡夫とひじり一味(いちみ)なり (正信偈・意訳)
人はみな、前後不覚のいのちを生きています。産声を上げたそのときから、なんら変わらぬ愚かさをかかえて生きています。老少善悪をえらばない阿弥陀さまのお慈悲のなかに、一味の安らぎをお聞きかせいただきましょう。