正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【10】
能発一念喜愛心
不断煩悩得涅槃
よく一念喜愛(いちねんきあい)の心(しん)を生ずれば
煩悩(ぼんのう)を断ぜずして涅槃(ねはん)を得るなり
(意訳)
信心ひとたびおこりなば
なやみを断たですくいあり
【正信念仏偈10】~お慈悲の道~
仇までもすくう情けの誓いこそ
手折れる袖に匂う梅なれ (利井鮮妙)
花盗人に罪はないといいますが、梅の花は、みずからを傷つけていくものの袖にすら、その芳しい香りを薫じつけていきます。同じように、真理にそむいた生き方しかできない愚かな凡夫にこそ、阿弥陀仏の本願はかかっているのですね。今月の二句からは、そのご本願のはたらきを具体的に表されていきます。
「よく一念喜愛の心を生ずれば
煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」
喜愛の心とは他力の信心のことです。阿弥陀さまのお慈悲のなかにたまわる信心には、必ず浄土に生まれさせていただく喜びがともなっていますから、喜愛の心といわれます。しかもそれは、煩悩を断ちきってさとりをひらく道ではなく、煩悩をかかえたままで仏のさとりをひらく道であったと仰るのです。
煩悩とは読んで字のごとく〝煩(わずら)い悩(なや)ませるもの〟です。貪欲(とんよく)(むさぼり)、瞋恚(しんに)(いかり)、愚癡(ぐち)(おろかさ)の三大煩悩をはじめとする、ゆがんだ心のはたらきです。それがあるかぎり悩みの絶えることがない、あらゆる苦悩の原因です。対して涅槃とは、煩悩をすべて滅しつくした完全なる安らぎの境地です。つまり煩悩を断たずに涅槃をうるということは、苦悩をかかえたまま、完全なる安らぎにいたるということになります。これはいったい、どういう事態でしょうか。 お慈悲の道は一方通行であったと、ある先生が仰っていました。もうお浄土に参られて久しいですが、人間味あふれた、あたたかい先生でした。あるときその先生が、近くのお寺さんの相談をうけたそうです。
「先生、うちの息子が言うことをきかんで困っとるんです。大学さえ出たら、帰ってくれると思うとったんですが、卒業したら東京行くといいだしました。どう言うても聞かんのですが、どうしたらいいのでしょうか…。」
先生は静かに一言、仰ったそうです。
「ほうかほうか。子どもはのう、親の言うとおりにはなりゃあせんよのう。親のとおりになるんよ。カエルの子はカエルよのう。」
あなたは若いころ、親の言うことをよく聞いていたのですか?と問い返されたのですね。さすがにそのお寺さんも黙ってしまわれたそうですが、そのうえで、先生は仰いました。
「お慈悲の道は一方通行よ。かえり道はありゃあせんかったのう…。」
親なればこそ、子の人生を誰よりも心配し、誰よりも願うだろう。こういう人間になってくれ…、こういうことだけはしてくれるなよ…と。しかしいつの世も、子というものは親の言うとおりにはならない。では、どうするのか。他人であれば、どう言いきかせてもきかないならば、放っておくしかないかもしれない。しかし親なればどうか。親なればこそ、子の愚かさをいたむ。しかし親なればこそ、その愚かさごと抱かずにおれないのではか。それは私の責任だと、その愚かさごと、苦しみ悲しみすべてを抱かずにおれないのではないか。あなたの親もそうだったのではないか。そして、いのちのみ親も…。その先生は親子の相談にのりつつ、阿弥陀さまのみこころを仰いでおられました。お慈悲の道は一方通行であった。いかなる見返りも、たった一つの条件もなく、むしろ愚かなればこそ、届いてくださっているお慈悲であったと。
煩悩を離れられない私たちは、生きているかぎり、苦しみ悩みつづけるでしょう。しかし私の苦しみを、その愚かさごと抱いてくださる大悲のぬくもりに遇うならば、私たちは生きる苦しみのなかでさえ、もろ手あわさせて歩んでいけるのではないでしょうか。
「信心ひとたびおこりなば
なやみを断たですくいあり」 (意訳)
お慈悲のなかに、ほんとうの安らぎをお聞かせいただきましょう。 南无阿弥陀仏