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正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【1】

正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【1】


    原文
    帰命無量寿如来
    南无不可思議光

    無量寿如来に帰命し
    不可思議光に南无したてまつる

(意訳)
ひかりといのちきわみなき
阿弥陀ほとけを仰がなん

【正信念仏偈1】~一声のなかに~』

「涼しやな弥陀成仏のこのかたは」(一茶)
小林一茶も句にしているように、親鸞さまがつくられたお正信偈は、毎朝のお勤めとして、真宗門徒の生活となって親しまれてきました。この六十行・百二十句の短い偈文ですが、この中には、お釈迦さまが説かれた『無量寿経』の教えと、七人の高僧方の教えの要が、すべて込められています。
内容は大きく前半と後半に分かれており、前半ではまず阿弥陀仏の本願が讃えられ、それを説いてくださったお釈迦さまのみ心が、続いて顕されています。後半ではこのみ教えを伝えてくださった七高僧の教えが書かれています。すなわち、インドの龍樹菩薩・天親菩薩、中国の曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、そして日本の源信僧都・源空聖人の教えです。まず今月は冒頭の二句を味いましょう。
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
この二句は要するにお念仏です。「南无阿弥陀仏」はインドの言葉の音を漢字に写したものですが、この二句はその意味を表したものです。つまり親鸞さまはまず「なもあみだぶ、なもあみだぶ…」とお念仏をいただかれているのですね。これは、お正信偈に顕されている内容のすべてが、一声一声のお念仏の中味に他ならないことを意味しています。ここは、お正信偈を味わう一番の要と思います。
先般、「ごちそうさん」というドラマが好評のなかで終りました。お寺でも毎朝たのしみに観ていましたが、考えてみると最近「いただきます」「ごちそうさま」という声があまり聞かれなくなってきたように感じます。新幹線のなかでもお弁当を広げておられる方は多いですが、手をあわせて「いただきます」をされている方はほとんど見られません。居酒屋さんでも聞こえてくるのは「乾杯!」の声ばかりです。これはとても悲しいことです。仏教の根本的な教えに「縁起」がありますが、縁起とは「…がなければ、~はありえない」というものの見方だと言えます。どんなものでも、そのものだけで存在しているものはありえません。たとえば〝私〟という存在は、少なくとも両親がいなければ、ありえなかったでしょう。もちろん両親だけではなく、太陽のめぐみ、大地のぬくもり、水、大気、人の心、様々ないのち…、見通すことなど到底できないほど圧倒的なものが〝私〟の背景を為しています。「いただきます」という言葉にも、同じ眼差しがあります。それは眼前の食事をあたりまえにあるものとせず、多くの命を傷つけなければ在りえなかったものとして、手をあわしていただく心です。「ご馳走さま」も、多くの人たちが走り回ってくださらなければ、この食事をいただくことはできませんでしたという言葉ですね。そのものの意味は、そのものだけを見つめていては見えません。「…がなければ~はありえなかった」という眼差しをもつとき、はじめて私たちは、そのものの意味を知るでしょう。お正信偈もまったく同じです。親鸞さまはまず「帰命無量寿如来、南无不可思議光…」とお念仏をいただかれ、第三句から以下はすべて、何がなければこの一声がありえなかったのか…という眼差しのもとに書かれています。
たった一声ではあるけれど、この一声は、阿弥陀さまの本願がなければ、私の口にのぼることはありえなかった。そしてまた阿弥陀さまの本願が発されていても、お釈迦さまが説いてくださらなければ、この一声はありえなかった。いや、たとえお釈迦さまが説かれていても、龍樹菩薩が…、天親菩薩が…、曇鸞大師が…、そして法然聖人に遇えなければ、この一声を私がいただくことはできなかった。そのような眼差しのもとで、お正信偈は書かれています。親鸞さまが、自らいただかれているお念仏の意味を仰ぎぬかれたお正信偈。私たちもお念仏いただきつつ、この口にのぼっている一声の中味として、お正信偈を味わってまいりましょう。 南无阿弥陀仏

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