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正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【25】

正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)【25】

天親菩薩論註解
報土因果顕誓願
往還廻向由他力
正定之因唯信心

天親(てんじん)の論 釈(しやく)しては
浄土にうまるる 因も果も
菩薩(ぼさつ)と礼(らい)したてまつる。
往(ゆ)くも還(か)えるも 他力ぞと
ただ信心を すすめけり

(意訳)
天親(てんじん)の論 釈(しやく)しては
浄土にうまるる 因も果も
往(ゆ)くも還(か)えるも 他力ぞと
ただ信心を すすめけり

【正信念仏偈25】~曇鸞大師(どんらんだいし)の教え②~

お念仏いただいて浄土に生れることも、仏のさとりをひらいてこの娑婆に還り、あらゆる苦悩の人々をすくうことも、すべては他力、阿弥陀さまの大悲のめぐみに他ならない。ただはからいなく、この大いなる慈悲のめぐみにおまかせしなさい…。曇鸞大師は「他力」という言葉によって、阿弥陀さまの慈悲のはたらきを明らかにされたのでした。

今年のカープのゆくえもたいへん気になるところですが、プロ野球でも「自力優勝が消滅」とか「他力本願では…」などといわれますね。しかし「他力」とは、仏の慈悲のきわまりを表す言葉であり、そのような場面で使うべき言葉ではありません。そして、自分ができることを他人まかせにするというような意味でもありません。
阿弥陀さまは、みずからの功徳すべてをめぐみ与えて、あらゆるものを浄土に生まれさせようと誓われました。では、なぜそのような誓いをたてられたのでしょうか。阿弥陀さまのお慈悲の眼には、自らの力では永遠に生死の苦しみをこえることができない、煩悩具足の凡夫のすがたが見つめられていました。

苦悩の凡夫をすくうために、何ひとつ求めることなく、みずからのすべてをその名にこめて、めぐみ与えてくださっている大悲のはたらき。それを「他力」というのですね。
以前、若坊守の実家に帰っていたときのことです。まだ一歳で何もわからない娘が、ソファーによじのぼろうとしていました。

「なっちゃん、そこのぼったら危ないよ~」
はなれた台所から声をかけていた若坊守でしたが、そこにお義父さんが一言、

「それがわかったら赤ちゃんじゃない!」

お義父さんはかけよって、娘を抱きあげてくれました。言ってわかるのなら、赤子ではない。何もわからないから、赤子なのですね。そして何も分からないからこそ、届いているはたらきがあるのですね。阿弥陀さまも、おなじでしょう。自らの力では生死の苦をこえられないのが凡夫のためにこそ、阿弥陀さまがすべてを与えてくださっていました。それを「他力」というのですね。そして、浄土に生まれたものは仏のさとりをひらき、迷いの世に還ってあらゆるものを救うのだと曇鸞大師は仰います。すべてをめぐみ与えられた凡夫が、すべてをめぐみ与える仏となるというのです。これもまた、不思議なことです。

「おかあさんになりたい ゆうすけ」

去年の七夕に、幼稚園の子が短冊に書いていた願いごとです。ゆうすけ〝君〟でしょうから、お母さんになるのはやや難しいでしょう。けれどゆうすけ君は、どんなときにもすべてを抱いてくれるお母さんが、ほんとうに好きなのでしょうね。うれしいときでも、悲しいときでも、変わらず抱いてくれるお母さん。なんて、あたたかいのだろう。なんて、大きいんだろう。ぼくもいつか誰かを抱くことのできる人になりたい…。
そんな思いで、ゆうすけ君は短冊を書いたのでしょう。すべてを抱かれたものが、やがてすべてを抱くものとなる。往くも還るも他力なのだといわれた曇鸞大師の教えが、思いあわせられました。

お念仏とは、仏さまよりすべてをめぐまれて、すべてをめぐむ仏とならせていただく道です。ともに、お慈悲をいただきましょう。
南无阿弥陀仏

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